COBOO HISTORY 2002 - 2022

● 20年目のカスタムペインター

これまで何台のバイクや車をペイントしてきただろう。
僕がエアブラシを使い、ペイントをはじめて、20年が過ぎた。

とにかく、明けても暮れても、数え切れないほどの車両やモノを色塗れになりながら塗ってきたよ。
ぼくは、育った環境や周囲の人たちの影響もあり、10代の頃から自然にバイクに乗る生活を送ってきた。
夜な夜なバイクで仲間たちと街中を走り回っていたかな。
たぶん、当時の日本の若者のスタンダードな青春のスタイルだったと思うよ。 そうしたバイクのある生活の中から、自然にバイクのペイントにチャレンジし始めたんだ。 ただ、本格的ではなく、自分のバイクや友達のバイクを塗る程度で。
職業にしたいなんて思ってもいなかった。 ただただ、楽しい時間を過ごしていただけだったな~。

そんな”ちゃらんぽらんな生活”をしてきた中で、ある時、一番の親友が目標を持って大学に行き始めたんだ。 単純かもしれないけど、一番の親友が未来に向かって進みだしたように見えて、とても自分に焦りを感じたんだ。 そこで、はじめて自分の将来を真剣に考えるようになったんだ。丁度、10代最後の年だったと思うよ。
この時に決めたんだ。ペインターで生きていこう、と。

その時は、画家、イラストレーター、アーティスト、グラフィティーライターなども全部含めて”ペインター”という考えだったけど。笑 今となっては、刺激ときっかけをくれた親友に心の中でとても感謝してるんだ。

●デザイン系ペインター

ペインターで生きていこうと決意したが、ペイントの技術や知識や経験が全く無かった。 ただ、自分で決めた事だし、もちろん憧れもあったから、ゼロからスタートする事にワクワクしてパワーが 漲っていたよ。笑

幼少の頃から、わりと外で遊びまわる元気な少年だった僕にも、唯一、子供の頃から好きで憧れている人がいたんだ。 実は、隣街くらいの距離にスタジオがある事を大人になって知った時は、びっくりしたけど。笑 それは、漫画家の鳥山明。世界中で誰もが知っている日本を代表する漫画家で、ドラゴンボールが始まった当時、 小学生の僕には衝撃的だった。 僕が絵を描く事が上手くなったのは、ドラゴンボールの単行本の表紙や挿絵、お気に入りなカットなどを すべて模写してたからだと思うよ。

外で遊んで家に帰るとドラゴンボールのイラスト模写。笑 そんな小学生だったことが、後にペインターになることに繋がるとは当時はおもってないけど。 だから、描いてと言われれば、どんな絵も上手く描けた。難しくなく自然に描けるようになってたんだよね。
(ドラゴンボールのおかげです。笑) 絵に対しては、そんな自信もあって、親友のように、僕も美術大学やデザイン学校に行こうと思い始めた。
そこで、知ったんだ。 アーティスト志望は美術大学へ、デザイナー志望はデザイン学校へというようなおおまかな分類。

美術大学は、なんだか自分に合わない空気で、受験も途中でやめた。 だから、普通の人たちより2年遅れて再びデザイン学校に行くことに決めたんだ。 遊びまわってた奴が、自分で入学金を貯めて、改めて学生になる。こんな僕でも、このデザイン学校に通った2年間は、 本当に必死にデザインやアートを¥勉強したよ。たぶん、好きだったからできたんだろうけど。 アートの世界、デザインの世界、色彩学、色彩心理学。 色や表現で人のこころにメッセージを贈るようなこの業界が、本当に好きになっていった。

学校で勉強した後は、仲間たちと壁画やデザインの仕事を日々やったりして。 だから、僕は、技術系ペインターではなく、デザイン系ペインターで、人の心理や希望を汲み取ってデザインやペイントをすることが 一番得意になったんだ。